その頃

史上最高によくできた弟であり、かつ長兄不在のときには兄としての役割をこなしてきた伊沢壱成だったが、この時ばかりは、その可愛い妹達の突然の泣き声に一瞬の動揺を隠せなかった。

「壱兄ぃー…!」
「どうした?」
「う、う、う……」

というのも、妹達の泣き声というのが、混乱しつつもいつになく押さえられた……怯えを含んだ、ものだったからだ。外出中ならいざしらず、(基本的には)平和なこの伊沢宅で、元気な妹達がこのような反応をする理由が思い浮かばない。
自宅とはいえ、知らない人間が来ているわけでもあるまいし……確かに今は来客中だったが、むしろ、妹達の大好きなキレイで優しい「アキラお姉ちゃん」の訪問に、いつものように上機嫌で兄たちの勉強の邪魔に勤しんでいたはず。

「壱兄ぃー…!!」

再度唱和した双子の声が、壱成の思考を現実の対応へ向かわせようとする。

「分かったから、まずはちょっと落ち着いて深呼吸しよう」
「…すーはー、すーはー」

素直に兄の言葉に従った双子の様子を見ながら、双子が怯えるものについて思い巡らす。
自宅で彼女らを怯えさせる存在……もしや、泥棒の類だろうか。まだ日も暮れていない昼間に泥棒とは非常に考えにくいが、ないとも言えない。
しかしよりにもよって兄たちがいるときに侵入してくるとは、運の悪い泥棒である。双子が見た場所さえ分かれば、恐らく何の被害もなく取り押さえられるだろう。

双子が落ち着いたところで、再びゆっくりと話し掛ける。

「で、どうしたって?」
「……あのね、どうしよう壱兄」
「?」
「「アキラ姉ちゃんが食べられちゃうー…!」」

ドガッ

「も、もうすぐ休憩時間になるから、吉兄たちをびっくりさせようと思って、二階に行ったら、吉兄が…」
「アキラ姉ちゃんのお顔、パクって……」
「「うわぁーーん、アキラ姉ちゃん食べられたらなくなっちゃうー!」」

そういって妹達は二階に憚るようにして泣き始めた。
……なるほど確かに怖いものを見たのだろう、最も頼りにしている長兄が原因とあっては、不安も混乱も怯えも分かるというものだ。
だばだばと涙をこぼしながら「頼れる兄」を見上げてくる妹達はかわいそうだったが、思わず頭を壁にぶつけた壱成もまた、思いっきり泣きたかった。泣かせてくれる相手がいない分、自分はかわいそうだ、絶対。

「…壱兄、どうしたらいい…?」
「…いぃ?」

言外に吉兄がいまだ「お食事」中だという事実も分かってしまった壱成には、解決の期待を込めて見上げてくる妹達が恨めしい。訂正、最も恨めしいのは敬愛する長兄だ。

キスの現場(それも恐らくは双子の気配にも気付かないほどのディープキス)という、言い逃れようのないシーンを目撃されておいて、一体俺に、どこをどうやって状況を説明しろっていうんですか?それもこの純真なおジョウサマたちに?
そもそもアナタ方、ほとんど初めてのキスのハズじゃあありませんか、それを、なぜよりにもよって今ここでこの状態でしなきゃいけないんだ!イジメですか!

彼の推測では、あの二人はバカがつくほどのラブラブっぷりでありながら、その間には未だ「何も」なかった。まあ手くらい握ったかもしれないが、キスましてやそれ以上など全くこれっぽっちもないのは間違いない。
それは兄も知らない、弟の断定だった。冷静な観察とは無慈悲である。
しかしだからこそ的を射ている。彼の言い分はもっともだろう。

「……えぇ〜っと、あのー、アキラさんは、減らないから、うん、大丈夫大丈夫」
「ええ!?だって、食べられてたんだよ、壱兄!!」
「だよ」
「いや、そうじゃなくてね……」

食べるは食べるでも、それは「食べても減らない」ほうの「食べる」でして……
なんてことは当然言えない。伊沢家コード(絶対規則)にひっかかる。

「えーと、とにかく、ほら、そうだよ!
吉兄が人間を食べるなんてあるわけないじゃないか! ね? ははは」
「「壱兄!!!」」

真面目にやってよ!アキラお姉ちゃんがどうなってもいいの!?
と、目が言っている。笑ってごまかすこともできない、ああどうしろというのか。壱成は自分が嫌な汗をかきはじめていることを自覚した。

「……壱兄? どうしたの? どこか痛い?」
「…痛い?」

さすがに、微笑みを浮かべたまま真っ青になり胃を押さえる壱成の異常な姿に気付いたらしい。

「あかり……のぞみ……」

形だけはにっこりと笑い心の中では滝のような涙を流しつつ、壱成は言った。

「本当に、アキラさんは大丈夫だから……、お兄ちゃんのことが可哀相なら、今から言うこと聞いてくれる?」
「う、うん、あかり、壱兄の言うこときくよ!」
「…のぞみも」

いい子たちだ。同情されていることは考えないことにしよう。
壱成は心の中で感謝しつつ、二人に今すぐ外泊の準備をするように言った。理由は分からないが、切実な何かを感じて行動に移す妹達。同時に末の弟の準備も整えていく。
そうこうする間にも、二階の物音の幻聴が聞こえたような気がして、壱成は震えた。

一刻も早くこの家を離脱しなくてはならない。全てはそれからだ。説明など、あとで本人の口から説明してもらえばよい。それくらいの意趣返しは許されるだろう。
問題は、きちんと時間を組んで勉強している彼らが、時間になってもお茶を取りに来ていないという事実なのである。
今二階が、普段とは異なる状況にあることは想像に難くない。

俺って実はものすごく可哀相な弟かもしれない。
と、伊沢壱成は初めて、「素晴らしい兄と可愛らしい弟妹に恵まれた幸運な弟」という自分自身の評価が揺らぐのを感じていた。

あとがき

えーと、そのうち書くつもりのシリーズものの、途中に入れるつもりだった部分。
リハビリ替わりに書いてみた。

しかしもうちょっとどうにかならなかったのか、これ。タイトル適当すぎ。
「壱成が全ての被害をこうむる」以外のオチのパターンを
研究する必要があるなーってことだけ分かりました。難しい。

2006/05/07 しらさぎ

▲Readingst △Once More
▲Past

Since:2004/01/27 (C)Shirasagi