手を。

◇1

歴史を感じさせる体育館。
汗を流し、生き生きと動く男女。
動きそのものの美しさに、通行人も思わず覗き込んでいく。
そして―――
瞬きさえ忘れて、それを見ている人物がひとり。
背の高い、すっと伸びた背筋をした女性だった。

その日、その容貌で人目を引きまくっていることにも気づかずに、
彼女は最後まで、練習風景を見続けた。

その次の日も、次の日も、…そして。











伊沢吉成は押しが弱い。
命をかけても良いとさえ思う相手に想いを伝えない、なんてのは序の口で、
相手が自分の親友だけを見ていても、自分の悪友だけを見ていても、
それでも、それが相手の為ならばと、ただただひたすら耐えるほど。
ここまで来ると「我慢強い」なんて言葉で表しては我慢強さに悪い。
つまり―――彼は、押しが弱いのだった。


最近、ようやく想いの通じ合った長年の想い人にも、押しの弱さは相変わらず、
そして遺憾なく、発揮されている。

晴れて恋人同士になり、折角二人っきりで街に出て、堂々と自宅まで送り迎えしている
にもかかわらず、これといった恋人同士らしい進展なんてものは一切なし。

あのホワイトデーの奇跡は、やはりホワイトデーの魔力によって引き起こされただけの
偶然なのだろうか?

間の悪さでは右に並ぶものの無い彼氏と、鈍さにおいて他の追随を許さない彼女。
この二人がくっついて、自然と話が展開すると期待するほうが無理だろう。
二人は仲良く登下校し、お昼を一緒に食べ、休日には誘い合って(子供同伴の)ドライブにいく
―――――ありていに言うなら、それだけの仲ともいえる。



しかしそれでも伊沢は良かった。
たわいない話をご飯を食べながらのんびり話すだけで、
家まで送っていき、はにかみながら微笑んで「おやすみ」と言ってもらうだけで、
休日に公然と一緒にいられるだけで、
何より毎日顔が見られるというただそれだけで、
それだけで幸せだったから。

アキラに会えなかった一週間のこと、それ以前の耐え忍び続けた時代のこと、
それらを考えれば今の自分は全く恵まれている。
あの時想いを口走った自分に、今なら盛大な拍手と金メダルでもあげたいところだ。

あんなに確率の悪い、心臓に悪い思いは二度とゴメンだという気持ちも確かにあったが。



焦る必要はない。
今、アキラは目の前にいるから。
急ぐことはない。
アキラの望まないことをしない為に。
望んではいけない。
己を抑えがたくなるから。


とりあえず今は、お互いに少しずつ歩み寄っているところ。
ホワイトデーの魔法については、出来るだけ考えないことだ。
…でなければ、不憫さのあまりに涙がでる。


しかも昨日は、なぜだかアキラと一緒に帰ることが出来なかった。
その後、予想外の展開によってアキラの可愛らしさに出会ったため、
地獄に仏というか結果的には鼻血を拭く勢いだったのだが。
嘘のように清い関係のまま余生のような学生生活を送る伊沢吉成にとっては、
アキラと完全に二人っきりになれる送迎の時間というのは、とても重要なものなのだ。
未だにアキラは「毎日送ってもらうなんて申し訳ない」と言っているが、
そこで簡単に引き下がれるわけがない。
なんだかんだと理由をつけて時間を合わせては、毎日送っていくのが習慣になっている。
(…半ば強制的に習慣化している。)



そして数日後。
助手席にアキラを乗せ、至福の時間。
基本的に空模様は快晴となる。

「伊沢、明日からのことなんだけどね」
「?なんだ」
「いっつも送り迎えしてくれて、本当ありがとう。なんだけど、」

(…「なんだけど」?)
不吉な言葉に、どことなく怪しくなっていく空模様。

「…なんだけど、なんだ?」
「うん、その…明日から、俺、自分で帰るから、」

ピカッ
瞬時に鳴り響く雷鳴。

「明日から、俺のこと送ってくれなくていいから」

ザ―――――――ッッッ

日本列島が梅雨入りした。

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